Vol.116

2012.02.28 Up

☆彡。。 ひ と り ご と 。。☆彡

 母親の他界・・「お母さん」と呼べば「なぁ〜に?」と、返事がかえってくるのがあたりまえだった。けんかをするのも散歩をするのも、旅行に行くのもあたりまえだった。「食事に行く?」「そうねぇ〜!」これらの日常的な会話もあたりまえだった。
お母さん、幼稚園・・ちょっと、きつくなった・・」母には愚痴もこぼした。
その母がある日、突然、逝ってしまった。最後のことばは「お母さん・・ちょっと疲れたので横になるね」だった。そのままベットの中で眠るように逝ってしまった。病院で「ご臨終です。0時37分です。」といわれてもピーンとこなかった。涙も流れなかった。流れることさえわからなかった。ただ、ただ、母の手を握りしめていた。まだ暖かい温もりのある母の手だった・・が、私の手を握り返すことは二度となかった。
母は努力の人だった。子育て・・私たちの学費がいらなくなってから着物の着付けをはじめた。またたく間に腕をあげて着付け教室を開くようになった。そして、着付けで【博士号】を取得した。博士号取得授与の場所は【京都御所】だった。「三笠宮さまは品があって綺麗だったよぉ〜!」が、口癖だった。

また、民謡も三味線も師範の資格を取得した。民謡の大会で東京は渋谷のNHKホールでも民謡を披露した。「お母さん、このホールで大みそかの紅白歌合戦があってるのよ」と、私が話すと「ミッチー(私のこと)そんなに、プレッシャーをかけんでよ」と、怒っていた。
車の免許を取得するのも早かった。福岡県で女性で車の免許を取得したのは、母が番目だった。母が運転する車に乗っていると「女の人が運転している」とみんなが振り返ってみていた。そんな母が誇らしくもあった。私の自慢の母だった。
幼稚園の認可申請も両親が・・特に母が一手を担ってしてくれた。それが今日の【美和台幼稚園】である。その【美和台幼稚園】も、今年、創立40周年を迎える。母が逝った年ではあるが「40周年の記念式典」を、楽しみにしていた母のためにも、心に残る式典にしたいと思っている。
お母さん、もうお浄土の世界にいけましたか?何か困っていることはなぁ〜い?」と、母の遺影に語りかけては・・一粒、二粒の涙・・でも、いつまでもくよくよしてはいられない。卒園式が目の前に迫っている。【みわだいっこ】の巣立ちの時を母にも見せてあげたい。いいえ、母は常に【みわだいっこ】のこと、私のことを見守ってくれている。今度、母に会う時に、笑われなくていい私になって会いたいものである。お・か・あ・さ〜・ん!